イギリスでは、1929年5月の総選挙で労働党が保守党を破って初めて第1党となり、第2次マクドナルド労働党内閣(1929.6〜31.8)が成立した。しかし、まもなくアメリカで大恐慌が起こり、アメリカ資本が引き上げられるとイギリスも世界恐慌に巻き込まれた。
イギリスは不況に陥り、綿工業・造船・製鉄・石炭などの主要産業の生産が激減し、商業・貿易も急速に衰えた。こうした中で失業者は急増し、1929年6月には116万人であったが、翌年4月には176万人、そして1931年6月には270万人にのぼった。このため失業保険の給付が激増し、財政が悪化した。
マクドナルドは失業保険の大幅削減などによる緊縮財政を立案したが、これに対して労働党は公約に掲げる社会保障制度の充実に反するとして強く反対し、マクドナルド労働党内閣は総辞職した(1931.8)。
マクドナルドはその直後に国王の大命をおび、保守党及び自由党の協力を得て挙国一致内閣(1931.8〜35.6)を組織した。このためマクドナルドは裏切者とされ、労働党を除名された。その後、10月に行われた総選挙では政府与党が圧勝し、党首を除名した労働党は215議席を失って52議席となった。
マクドナルド挙国一致内閣は失業保険の削減を含む緊縮予算を成立させ、金本位制の停止(1931.9)や保護関税法の制定(1932.1)を行うとともに、1932年7月から8月にかけてカナダのオタワでイギリス連邦経済会議(オタワ連邦会議、オタワ会議)を開き、オタワ協定を結んでブロック経済政策を採用した。
イギリスはオタワ会議に先立って、1926年のイギリス帝国会議の決議を成文化したウエストミンスター憲章を制定し(1931.12)、各自治領にはイギリス連邦の一員としてイギリス国王に忠誠を誓うことを条件に、本国と対等の地位を与えることを定めた。
オタワ会議には、イギリス本国・カナダ・オーストラリア・ニュージランド・南アフリカ連邦・アイルランド・インド・南ローデシアの代表が集まり、本国と自治領及びインドは特恵関税制度を中心とする相互通商協定を結んだ。
このオタワ協定はイギリス帝国全体から外国商品を追い出すことを目的とし、外国商品に対しては高関税を課し、イギリス帝国内の商品に対しては無税または低関税を課すこととした。
これによって排他的な経済ブロックが形成され、イギリスは従来の自由貿易主義を放棄してブロック経済政策をとることになった。なおイギリスの経済ブロックはスターリング=ブロック(ポンド=ブロック)と呼ばれている。
イギリスがブロック経済政策をとったことが国際経済をますます狭めることとなり、世界経済の自給自足化と国際経済競争を激化させ、以後「持てる国と持たざる国」との対立が強まる原因となった。
ブロック経済政策によってイギリス経済は徐々に回復に向かい、失業者も減少し、工業生産指数は1929年を100とした場合、1932年は85であったが、1934年には104に向上した。
マクドナルドの引退後、保守党を中心とするボールドウィン挙国内閣(1935.6〜37.5)、ネヴィル=チェンバレン保守党内閣(1937.5〜40.5)が成立した。
|
|

ネットNo.1!SBI証券 資料請求は無料です。 未経験の方もまずは勉強から!

提供 株式会社SBI証券

無料登録で投資情報をGET! 経済に強くなるには?

提供 アテナインベストメント株式会社

約6万件のレッスン情報 無料で資料請求 <Veeスクール>

提供 株式会社プロトコーポレーション
|