世界恐慌


 世界的な規模の経済恐慌のことである世界恐慌。1857年の恐慌がその最初であり、1929年に始まる大恐慌は最も大規模かつ深刻なものであった。
 基本的な原因は需要と供給の不均衡にあった。1920年代のアメリカ経済は第一次世界大戦後債務国から債権国へと転じ、ハーディング、クーリッジ、フーヴァーの3代にわたる共和党政権のもとで自動車工業を初めとして、高度の資本主義の繁栄がもたらされていたが、第一次世界大戦の荒廃から回復していない各国の購買力が追いつかず、一方交戦諸国の農業生産が回復にむかったことによって農産物の生産が過剰ぎみになっていた。農業不況に加えて鉄道や石炭産業部門も不振になっていたにもかかわらず投機熱のみがあおられ、適切な抑制措置をとらなかったために1929年10月ニューヨークの株価大暴落を招いた。
 アメリカの経済恐慌はヨーロッパそのほかの地域にも伝播し,1931年5月にはオーストリア最大の中央銀行クレジット=アンシュタルトが倒産したのにつづいて,ドイツはダナート銀行の破綻に始まり6月に全ドイツが金融恐慌にまきこまれた。
 恐慌に対する各国の対応策としてアメリカは、現職のフーヴァーを破って当選した民主党のF=ルーズヴェルト大統領のもとでニュー・ディール政策を取り、大規模な失業対策と公共事業、社会保障政策により国民の購買力を高めることで恐慌を乗り切ろうとした。イギリスの政策は、ウェストミンスター憲章で各自治領に本国と対等の地位を認めることでその協力をとりつけ、マクドナルド挙国一致内閣のもとで金本位制を停止しオタワ会議でブロック経済をつくり恐慌を乗り切ろうとした。
 一方、ソ連はレーニンの死後、一国社会主義論を唱えるスターリンと世界革命論を唱えるトロツキーの対立がおこり、トロツキーを追放したスターリンは、反対派を粛清し独裁制を確立していた。彼の指導のもとで五力年計画が推進されていたので、恐慌の影響はほとんど受けなかった。
 イタリア・ドイツ・日本は、世界恐慌に対してニュー・ディール型やブロック経済型の対応をする国力はなく、恐慌対策を侵略への道に求めた。1933年1月30日のヒトラー政権の成立はそのコースへの画期的な事件となる。
 まずイタリアは、第一次世界大戦の戦勝国であったにもかかわらず、フィウメ、アルバニアの領有を認められず、共産主義勢力の暴動などが重なって社会不安が広まっていた。これに乗じてムッソリーニが指導するファシスタ党が台頭し、資本家、軍部の支持を受けて、1922年クーデターで政権を獲得した。一党独裁の下で、ムッソリーニはフィウメを併合し、アルバニアを保護国化するなど強硬な対外侵略政策を推進していく。
 ドイツは恐慌の影響が最も大きかった。1933年ヒトラーの率いるナチス(国家社会主義ドイツ労働者党)が政権につき、政治の反動化がひきおこされた。ヒトラーは、当初ミュンヘンで武装蜂起したが失敗し投獄されたので、合法路線による政権奪取に方針を変更した。ドイツでは、世界恐慌の波が及ぶと都市の中間層や農民の不満が増大し、彼らの支持を背景にナチスは1932年の選挙で第一党になり、共産主義の進出を恐れる資本家、軍部とも提携して政権を獲得した。ヒトラーは、ワイマール憲法を停止し、国会議事堂放火事件を口実に共産党を非合法化し、反対党を解散させてナチスによる一党独裁体制を確立した。ヒトラー政権の特色は、ムッソリーニと異なり、議会主義の破壊を議会主義のルールで達成した点にある。
 日本は、すでに1927年に金融恐慌がおこっていたが、世界恐慌の波及で日本経済は深刻な危機に陥った。この危機を乗り切るために、日本は中国大陸への侵略に乗り出す。1931年の満州事変、32年の上海事変を経て1937年から全面的な日中戦争に突入していった。
 その後、イタリアのエチオピア併合とフランコ将軍によるスペイン内乱を契機にして、イタリアとドイツはベルリン=ローマ枢軸を成立させ、同年に締結された日独防共協定にイタリアも加わる形で、1937年に日独伊三国防共協定(1940年に日独伊三国軍事同盟に発展)が成立した。ドイツのオーストリア併合、ズデーテン侵攻、イタリアのアルバニア併合を経て、ドイツのポーランド侵入にイギリス、フランスが宣戦して第二次世界大戦が勃発する。1941年12月日本が真珠湾を奇襲してアメリカに宣戦し太平洋戦争が始まり、第二次世界大戦は全世界に拡大していった。
 経済の世界の大恐慌が戦争につながってしまったこうした例を見ると、経済は人間にとってとても大事なものであるということがよくわかる。

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